何となく生きてる。

精神疾患を患い通信制高校に行った私が何となく生き続けている話をたまに綴るブログです

今までのこと。

始めまして、ひなどりです

何となくブログを書きたくて始めました。



当時の事を思い出しながら書いています。

文章が読みづらかったらすみません。




鬱病、不登校、通信制高校に行く等を経験した私が何となく20歳まで生きた話です。

自己紹介というか今までの経験をつらつらと書かせてください。







きっと私は20歳までに死ぬよ。

そんな事を口癖のように言っていた人間の話です。


別にすぐ死んでやろうなんて思っていませんでした。

親に迷惑をかけたくなかったので。

線路に入れば多額の賠償金、自宅で死ねば親がその現場を見ることになり、外で死ねば他の人が不快な思いをする。そんな事を小学生当時でも親に口酸っぱく言われていていつか誰にも迷惑のかからない死に方を見つけよう。

それだけが私の生き甲斐だったと思います。




自傷行為、ODをしていて、それを友人も察していたと今では言います。

その行為をしても死ねないという事は分かっていました。

自分を傷つける、自分が生きていることの罪滅ぼし、せめて自分が生きていても幸せでいっぱいにならないように、苦しみだけを沢山味わうように。


何故私が鬱を抱え始めたか、

覚えていません。

小さな頃からよく死について考える子供でした。

大切な人が亡くなった、ペットが、ということがあった訳でもなかったのですがずっと自分は死ななければならないと言う漠然とした恐怖感を抱えていました。



私の1番幼い頃の記憶は恐らく幼稚園児だった頃、夜いきなり泣き出してリビングに居た父と母に「死んじゃえなんて思ってごめんなさい、」と謝り泣き叫んでいた事です。

何故親に死んでしまえという事を考えていたのか

そう考えた理由も思い出せませんがそれが私の記憶です。


そこからの記憶はほとんど無く、それ以降の記憶は

小学生の高学年の頃でしょうか、虐められてインターネットに個人情報が晒されていたという事、それをきっかけに不登校になった事、リストカットをするようになった事。そんなところまで飛んでいます。


虐められた話はまたいつか。




私が虐められた経験はその1回。

それもまぁ別に今思えばインターネットに個人情報を晒されたこと以外はそこまで酷いものでもなく。

半年程の不登校をしてそのまま小学校6年生を終え次は地元の中学校に進学します。

私の中学校は2つの小学校が学区内だった為、心機一転して別の小学校の友人でも作ろう位の気持ちでそれなりに普通に過ごしていました。


これで安泰かと思いきや今度は家庭に変化が出始めます。

別に離婚、別居程重くは無いですが父親からの家族に対する肉体的、精神的DVが主に私に対して始まります。

私がグレたクソガキに育っていたのであればまぁそうなるのも分かりますが、特段何がある訳でもない時に急に部屋に入ってきて手を挙げられたり、母親と普通に話しているだけで口の利き方が気に食わないと殴られ蹴られ、挙句頭を掴まれてそのままガラス戸に叩きつけられガラス戸が粉々になった日もありました。

そんな家のことに耐えられなくなり少しずつ精神的に私もおかしくなりました。


家に居ては心が休まらない。

部屋に鍵も無い、寝たら安心かと思いたかったですが寝ていてもいきなり暴力を振るわれる始末。

心の休まる場所が無くなります。

少しずつそのストレスで食も狭くなり学校の給食が食べれなくなりました。

その当時の担任もまた厄介で全員で食缶を空にしよう。という目標を掲げていた彼のせいで私は給食を無理に食べさせられ、食べては吐いて、吐くから減らしてくれと言っても聞かない始末。これはダメだ。と思い諦めます。

その頃から拒食症のような症状が目立ち始めます。

朝はご飯を食べることも出来ず学校に行き、昼ごはんは給食を食べ全て吐いて、夕食も食べる気力が無く課題を渋々やって寝る毎日。それを約1年ほど続けました。当時身長が158センチ、体重42kg

よくぶっ倒れ無かったなと思います


友人との行動も制限されていたり門限が以上に早かったり、前述した通り給食を私が残す分自分たちが食べなきゃいけないじゃないか、と少しずつ付き合いの悪い子、めんどくさい子として色々言われるようになり全てが嫌になり自傷行為を繰り返します。


当時はリストカットばかりしていて毎日包帯ぐるぐる巻き、絆創膏、父親から受ける暴力での傷を隠すために長袖を年中着ていたりと最早色んな人がヤバくないかあいつ、と思っていたと思います。

実際全く関係の無い他学年の人によく年中ジャージの長袖羽織ってる子でしょ!って謎の認識をされていた記憶があります。


拒食症になり嘔吐も繰り返していたため胃が痛み始めた私は母親に現状を伝え病院に行きます。

まずは内科、そこでは内視鏡検査をする事を勧められ別の消化器内科に行けと言われます。

じゃあ行きますと紹介状を書いて頂き、消化器内科に行くとこっちで粘膜保護等の薬を出したり経過観察はできるが精神的な面がかなり強い為精神科にもかかるべきだと精神科の紹介状を持たされ精神科に行きます


ここら辺で自分が鬱病であると言うのは何となく察していながらこれからどうなるんだろ……と疑問を持ちながらも死にたいと考えるのはそのせいかな……と思いまぁ色んなことに納得します。


精神科に通い鬱病、また摂食障害の診断を受けたあと先生に学校について話をしていて行きたくない……死にたいと思っている事を全て話した私はもういいや……と思いまた学校に行かなくなります。

これが中3の6月。

そこから中学にはほとんど行きません。

大事な時期にこんな事になってはどうするとも母親は言えません、痩せこけ、腕や体が傷だらけで自室を汚し廃人のようになっている私を責めることもなく、しばらく休んで行けるようになったらこういう所に行かないかと適応指導教室のサイトを見せます。実際ある程度薬のおかげで落ち着いた私は通い始めます。

給食食べれない、勉強も出来ない、制服のスカートが履きたくない、同性の子が怖いと言った私に対して親身になって対応してくれる適応指導教室が好きでした。

徐々に色んな人と話せるようになって私は年下の子のお世話をしたり一緒に楽器を弾いたり男の子達と馬鹿みたいに遊んでしんどい時は1人で持ち込んだ漫画を読んだり絵を描いたりして時間を過ごします。最後にはだいぶ色んな人と関われるようになっていました。


そんなこんなをしている内に進路を決める時が来ます。

まぁ普通の高校は無理だなと思っていた私は適応指導教室の先生が教えてくれた通信制の高校に行きます。

そこでは今でも旅行に行ったり電話をしたりする位の友達が部活で出来てなんか幸せに過ごしてました。

特段病状が悪化する要素もなく、一旦精神科にかかることを辞め普通にバイトしながら通信制に通う日々。


できた友人達が先輩が多かった事もあり進路等も聞いては居ましたが皆フリーターと、

まぁそうだよなーと思いつつどうしよう……と思い始めます。鬱病が酷くなくなって病院に行かなくなったとは言え死ぬ事はずっと考えていたので私もフリーターでいいかな……別にしたい事もないし……

と思いますがなんか今すぐ死ぬ訳でもないしとなぁなぁの気持ちで専門学校に行きます。


専門学校で2度目の鬱病になります。

また対人関係です。

専門学校1年秋頃の話

でも不登校までにはなりません。

今度は早めに自分で病院に行くのです。

まぁ早々に鬱病の診断が出ます、知ってました。

今回の症状は希死念慮、不眠症が主です。


具体的には電車のホームが怖い、(ホームで1時間泣いて登校出来ない)死にたくなって自傷行為、OD、不眠症(朝5時まで天井を見つめ寝れず朝7時に起きて学校に行く生活を2ヶ月程していた)

不眠症から来る集中力の無さで先生の指示が頭に一切入らない等……

今でもこの鬱を引きずって病院に通い続けています

その頃それを心配した男友達に色々連れて行ってもらって色々あってそのうちに付き合う事になります。

どうにか生きる意味を見出したのですが今度私なんかが相手の時間を奪うなんて……というネガティブな思考や幸せなことの後は必ず辛いことが待ってるという思考のロックでデート中に幸せだと思っていても泣き出したりすごく迷惑をかけつつ1年と少し付き合い続け気がつけば20歳。




今は高校時代の先生が着物を教えてくれた事から着物に興味を持ち着物屋でアルバイトとして働きいつか着付け師とかなれたらいいなと思いつつ掛け持ちでバイトをするフリーターとして何とか生きています。


長くなりましたが鬱病、不登校を経験して、なんならまだ鬱病に関しては治っていませんが何となく生きていくことはできるし夢を持てば色んな人に出会えて支えて貰えることができるよ。という事を伝えたかったのです。


今のバイト先では自分の事をある程度話していて鬱病で、動けないこともあるけど寛解したら着物屋、着付け師等着物に関わる仕事をしたい。と話していて実際着付け師さんやいろんな方を紹介して頂いたり、理解してもらい、ゆっくりでいいからと人生のアドバイス等もしてもらいながら生きています。

何とかなる。



どうかこの文章を読んだ人達の支えになればなと思います。


読んでくださってありがとうございました。









PS 死に方を模索していた私ですが本当に限界が来た時は誰にも迷惑にならない前提でひとつの答えを見つけました。

×

非ログインユーザーとして返信する